われわれが知らないソビエト連邦(番外編)
すこし脱線します。当時の日本ではあまり知られていなかったソビエト連邦の内部をすこしだけ。
- 差別される東洋人。原因はアジアの共産国であるベトナムからの出稼ぎ労働者のイメージが即、東洋人のイメージであったということでした。当時の閉鎖されていた環境を物語ります。下手をすればバスにも乗せてもらえないことや、また乗った後も周りから毒づかれたりです。ホテルのロビーに入れないことが結構ありました。ホテルの場合は英語で日本人であることをいえばOKのことがおおいですがそれでも入れないところもありました。よってわれわれは休日といえども外出時にはベトナム人に間違われないような服装や装飾品を身につけたものです。当時日本は、世界的にリッチであると知られていたにもかかわらずソビエトでは通用しなかったのです。頭にきてホテルのドアボーイにUS$札の束をトランプのようにひろげて見せて食ってかかった設備の同僚のことを今でも思いだします。
- なーんにもない。とにかくものがない。ほんとになーんにもない。お金はあっても買うものがないのです。買い物らしい買い物ができるのはUS$で商売をする国営の外貨ショップだけです。庶民にはものが流通せず、一部のドルを使える特権階級にのみ優遇されるのはどの共産圏も一緒のようで、結局原理的に成り立たない思想なんだな、とそのとき身をもって実感しました。今まさにお隣の北の国がそうなりつつありますよね。
- 納車の納期は15年。当時現地の人が国産の車をオーダーしたら納車までは15年もかかりました。15年です!したがってどんなにぼろの車でも、まるで宝物のように扱っていたのを思い出します。車から降りるときはカーオーディオはもとより、社外のバックミラーまではずして持って歩くありさまです。
- ヘッドライトを使わない。なんとモスクワの市内では彼らは夜もヘッドライトをつけません。ポジションランプだけです。それでも雪明りとみんなつけてないのでまぶしくないので何とか運転できるわけです。ところ変われば、ですね。
- あるところにはふんだんにある。契約先の会社はその共和国の首都にあり、幹部の何人かは政府の高官と結構なつながりがあったようです。彼らの家に招かれていった際には、これでもかといろいろな高級食材がでてきたものです。一缶US$130もするキャビアを黒パンの上に、これでもかとてんこ盛にして食べたのはおそらくあれが最初で最後になるでしょう。
- 乱れははじめていた治安。外国人居住アパートのわれわれのフロアーは一度自動小銃を持った強盗団に襲われました。まえに住んでいたフィンランド人が扉を鋼鉄の防犯扉にしていたおかげで難を逃れましたが、ドアののぞき窓から小銃が見えた聞いたときには心底震え上がりました。110番をしてから警察がくるまで1時間。これでは助かるものも助かりません。同居していた通訳は完全にびびってしまい、ドアの前に行こうともしません。このときも日本語でドア越しに相手を大声で怒鳴りつけたのは例の設備の同僚でした。えらい!
- 日本刀を持って大騒ぎ。ひょんなことから知ったのですが、われわれの住むアパートの中では9階の日本人が夜な夜な日本刀を振りかざして大騒ぎをしているといううわさが立っているというのです。なんで?いまだに真相はわかりません。道理でみんな遠くから僕らを見てひそひそしてたのね。仲良く話し掛けてくれたのはベトナムの出稼ぎの人だけでした。うれしいような、困ったような。考えてみれば、このころから今の私のアジア圏への強い思い入れが始まったのかもしれません。(詳細は、外資でがんばるの方で)
- ごみと化した現地通貨。手元に残っていた数百ルーブルをごみ箱に突っ込みわれわれは成田に向けて岐路についたのです。当時ルーブルは公定レートこそ1ルーブル2百数十円でしたが実質の価値は20分の1以下に落ちていました。現地の人でさえルーブルはもう要らないという状況でした。